さて、一応名前変わって最初のブログ日記になるので自己紹介をば。
っていっても名前名乗るだけですけども。
深い紅、と書いて「みく」と申します。苗字はいづれ必要性が出てきたらつけます。
深いという字だけで最初「しん」と考えていたんですが、どうしても前の名前の印象も残したくなり、こういう名前になりました。
「く」の音は「あ」にするにはちょっと無理があるんですが、今まで通り、みーあとお呼び下さいな。
深紅になっても、あだなは「みーあ」です。
深いという字を付けようと思ったのは、私が多分今一番色々な意味で大事というか、頭にある言葉「深淵」からです。
前ブログで何度か書いているので、馴染みの方もいるかもしれませんが…人が覗いたら気が狂ってしまうであろう面。人の闇。心の隙間。
そういうものを私は「深淵」と呼んできました。
「紅」がついたのは、まあ、ご存知赤い色を好むというところからです。安易に。
赤は私にとっては臨戦態勢の色です。気合入れの時に纏う色です。闇を這ってる普段の自分から、そうではない表向きの自分になるための色。
深紅という名前は、深=私の裏側、紅=私の表側、というニュアンスを念頭に置いてみました。
だから、ブログタイトル「深艶」はいづれもし、この名前でサイト復活することがあったら付けたいなと思っている候補のもの。
しんえん―――――――――深遠、深淵、親縁、神苑。
当然一番頭にあったのは「深淵」です。
「艶」はやっぱり紅と同じようなニュアンスで、艶やか=派手な色=赤を連想できるかなというところから。
…とまあ、どうでもいい薀蓄なんですが、前の名前から数ヶ月、名無しであえていたんですが、新しい名前になるにあたり、これでも色々考えた結果がこれでした。
最初に書いておきます。
このブログは、まあ、パスワード制にしているくらいですから見ている人はもちろん限られております。
いづれサイトを作ることがまたもしあれば、その時別で公開したものを作るかもしれませんが、当面予定もないので、結構色々本音書きさらしていくと思います。
私はご存知、こういう人間ですので、暗いことも平気で書くでしょう。
普通なら話さないようなことも書くと思います。
前のブログは公開にしていたから書けないことも、あのレベルでさえ、色々ありました。
多分、箍が外れるでしょう。むしろ、そのために作ったのがここです。
読んでいて苛立ったり、引き込まれて一緒に暗くなったりするかもしれません。
逆に相変わらず叫びのようなことも書くでしょうが。
まあ、そんな感じですので、お付き合いいただけるのであれば、そういう心で読んでいただければ。
恐ろしいことにコメント可にしちゃってますからね…
でもこれも最初に書いておきますが、相手は私です。
ミクシィのレスも放置するような人間なので、レスが必ずしもつくかというとそうでもないと思います。
ごめんなさい。ちゃんと読んでるけど、返事というものが今の私はとても苦手です。
「レスしなくちゃいけない」と思うことが苦痛です。
以前はちゃんと必ずといっていいほど返していた携帯のメールでさえ、放置率が高くなっているのも同じ理由です。
…正直、今年に入ってから前ブログにはろくなこと書いてませんでしたが、今の私はそれくらいすべてのことに疲れている。
義務化されたものに触れるのが物凄く嫌です。
だから、レスも気まぐれに従います。
それでもよければ…ってここまで書いてコメントくれる人もいない気がしますが(汗)
矛盾したことに、コメントつけてもらうことそのものは嬉しいのです。なのにレスしないなんて、酷いヤツですね。
でも、そういうスタンスでいこうと思います。
さて…最初なのでこんなことから始めてみましたが、いずれちょっとずつ前のブログの記事も過去のものとしてこっちに引っ張ってこようとは思います。
まあ、ちょっとずつ。疲れない程度にですが。
最近の私ですが…知っている人は知っていると思うし、知らない人は知らないでしょう。
今年入ってからというと、相変わらず忙しいながらもイベントに行ってましたね。
振り返ってみると…ブログろくに書かなくなっていたので、年始年末の抱負やら振り返りさえ、毎年していたものが今年はしてなかったなあ…
一月はですねえ…正月はまあ、某ネトゲに夢中でしたね。
このネトゲについてはここでは書かないと思います。別にブログあるんですが、それさえ放置している始末ですから…
その後もまあ、それはそれでぼちぼちしていたんですが…17日18日の二日間で大阪に行ってきました。
グラロデのライブのために。
とうとう一人で乗り込んじゃったんですが(翌週に東京公演があったので、どう考えても地元の面子がついてきてくれる訳がない・笑)
昨年の同じ頃も同じようにファーストツアーについていっていた頃ですね。
一年経ってもやってることがろくに変わってないなと本当に思いました。
ライブ前は一人で京都でバスを降りて、歩いていけるからと東寺によりました。
一人で仏像見て呆けたかったのです。
あの時の私は、物凄く病んでました。人に言うのさえ、億劫だった。
ライブ終わったら死のうかな、とさえ思っていたくらい。
今でも継続中でどうしようもないんですが、あの時も相変わらずで一人でいたから余計にそんなことで頭が一杯でした。
人のあまりいないお堂の中で仏像を見上げながら、私は多分こんな神聖な場所で死にたいなんて思っているのだから、罰当たりなんだろうななどと思ってました。
仏像を見ていたら何か気持ちが少しでも洗われてくれないかと思っていたんですが、やはりそう簡単にはいかないものですね。
ライブは…昨年物凄く寒い思いをしたんで覚悟していたんですが、案外そうでもなかったな…
悲しいことに、煩悩だらけ、どうしようもない私は、ライブの方がよっぽど気が晴れました(笑)
誰も知る人がいなかったから、逆に好き勝手弾けてきましたよ。
そして去年もやっぱり聞いた、ロデの中でも1、2位を争う大好きな曲「Snow Pallet」と聞いて、なんだかどうしようもなくなった。
なんであの曲が好きなのかはよく分かりませんが、去年を思い出して、今のその時間と思い出して、何が幸せなのか不幸なのかよく分からなくなってました。
また最後に「Beautiful World」をみんなで合唱したりするから余計に皮肉ですよね。
今の私が「美しい世界」なんて口にしているのは、物凄く滑稽だな、と思いました。ちっともそんなこと本心から思えないでいるのに。
ジョニーのことは大好きですよ。
その後の東京公演も、先日病気の体おしてまで行った2心臓ライブも、彼のためです、もちろん。
ジョニーのことは本当に好きなんだよね…何がどうのって分からないくらい。
動きとかねぇ、すっごく可愛いんですよ、ふふ。
でもそういうこととは別次元で、私は今もロデの歌が好きなのに、どこか皮肉的な思いで歌っている時があります。
分かりやすいですから、「慟哭ノ雨」とか、ああいう暗い曲は感情移入して歌える。だけど幸せそうな歌は歌いながら、どこか嘲笑を浮かべたくなる。
…本当に好きなのに、もはやロデの曲でも私は元気づけられない。
だから、実は最近罪悪感があります。ロデに対して。
本当に心から好きだと思っている分、きーやんにも悪いという罪悪が私の中にある。
本人たちが聞いたら知ったこっちゃあないと思われるでしょうが、心を込めて伝えてくれている歌に対して感動しきれない自分がいることが罪悪です。
困ったことです。本気で私としては。
そんな状態だったのは人に言っても仕方ないことだし、ぼろぼろ隠し切れない部分は表に出てはいたんですが、おもむろに口にしたのはここが始めてかもしれません。
人に言っても、相手が困るだけですもん。私だって自分が言われたら困るよ、そんな暗いこと。
なんて声かけていいか分からないし。だから、これでも結構口にしないように頑張ってはいるんですが。
元がおしゃべりなだけに、隠しきれるものでもないでしょうが。
それに私、「みんなそうだよ」って言われるのが実は物凄く嫌です。
知ってる、分かってる。私もいつもそう思う。自分で悩んだり暗くなったりしながら「自分よりもっと大変な人なんていくらでもいる。私は一般的に見たら恵まれている方」と何度も思いました。
全部が全部幸せな訳じゃない。私も二十数年生きてきて、酷い目にもあってきたし、裏切られたり裏切ったり、別れたり捨てられたりした。
それでも一般的に表から見る分には、きっと親も生きているし、友達もいるし、仕事も持っていて何不自由なく見えるでしょう。
私は外では元気いいですし、暗いとは言ってもテンションはむしろ人より高め。
それに誤魔化されてくれる人はたくさんいる。
それでいいのだと思います。暗い部分なんて本当は人にさらしちゃいけない。人を巻き込んでいくだけでろくなことにならないし、気持ち悪がられたり迷惑がられるだけ。
だから「みんなもそうだよ」と言われるのはマシなんだと思います。
それにそれは真実です。間違っていない、むしろ正しい。
自分でも自分にそう言い聞かせる。
でも本当は自分の気持ち分かってました。そういわれるのが物凄く苦痛だった。
「みんなもそう」な反面、「それぞれの痛みはそれぞれのもの」だとも思う。その当事者からしてみれば痛みはそのまま何よりも痛い痛みで、みんなが同じ痛みを持っていたとしても何の慰めにも痛みの緩和にもならないのです。
でも間違っていない、正しい、だから何も反論できない。それが嫌だった。
でもそれを口にするのはまるで自分が自分を悲劇ぶりたいようで嫌。悲劇のヒロインぶられるのは私が何より嫌うことです。
それを自分で演出するなんてなんて醜い。
だから口を噤めればいいのだろうに、私はやっぱり誰かに言いたくなる。相談したり助けて欲しくなる。
甘えてるとしか思えない。そういう考えを持っている時点で、私はやっぱり恵まれて成長してきたのかもしれない。
ならばその幸せを感受していればいいものを、ないものを強請り、他人から見たら不幸でもなんでもない今の生活が苦痛で、何の価値も見いだせなくていつもみっともなく悩んでもがいて死を焦がれてる。
私はそういうことを考え始めたのが中学生くらいからなんですが、そこからもうずっと、いわゆる中二病のままです。
みっともない、醜い。
何の不自由もないはずなのに、私はもうずっと死を待ち望んでいる。
自分から絶つほどには勇気もなくて小心者で、やっぱり痛いことは嫌い。
だから自殺願望者まではいかないけれど、かわりに生きようという意識も薄い。
口癖は「いつか死ぬから」「長生きする気はない」
積極的に死のうとはしないけれど、生きていたいともあまり思えない。
怠惰になんとなく死へと向かっている。
そういうのを消滅願望、とか破滅願望、というと言われました。私が退廃系キャラを好む理由の一つだと思います。
いけないことだと知りながら、どこか惹かれて一緒に破滅したいと思っている。
死ぬことって怖いことですか?
私は死の先には何もないと思っています。
うちの親は…ちょっとばかり父親は変わり者なんですが、死の先も終わりじゃないと言います。
だから死そのものは怖くないと。
うちの父親はもう天涯孤独の身で年をとってきたせいもあってか、私より退廃的です。
「生きることも楽しくない」と言います。こんな親見てるから余計私もこうなっちゃうのかもしれませんね。
人のせいにするつもりはありませんが。
そんな父親は、死んだら私の傍で私を守りたいと言います。愛されているとは思います、親に。
でも、どこの世界にそれで喜ぶ娘がいますか。もちろん、そんなのは嬉しくはない。
そしてずるいと思いました。自分は死んでもいいと思っているのに、私には生きていることを強制する言葉です。
私は確かに死んでませんが、だからといって長く生きたくもない。
私は、もしかしたらこの人生で最後、最大の過ちを犯すかもしれないと覚悟してます。
親より先に死ぬ、親不幸の罪。
これはもちろん親には言ったことありませんが。
同じような話を母にした時は、母は父ほど暗くはないので、泣かれましたけど。
母もおそらく私や父と性格が違うとはいえ、本人は本人なりに色々辛いことがあるでしょう。
まあ…本人曰く、だからといって私のようにすぐそこから生死の問題に思考がいったりしないそうですが。
それはやっぱり父似なんだろうな…私は完全に。
こんな暗いことをつらつら考えるような発想がそもそもないそうですから。
私からしてみると、私はぼんやり眠そうに見える時も大概頭の中は「生きている意味」を考えていることが多いので、そういう発想がないと言われてしまうとじゃあ何を考えてこの人たちは生きているんだろう、と不思議になりますが。
そういう母親でさえ、死んだ後も終わりじゃないと思っているみたいなんですよね…
私はどれだけ生きたかに価値をあまり見出せない。生きていることそのものには価値が見出せない。
どんな生き方をしたか、にしか価値を見出せない。意味のある生き方が出来たかでしかものの判断ができない。
だから、いつ死ぬか、何歳で死ぬかなんて私には何の価値もない。
逆に言うと、死の先にも何の価値もありはしないともいえるんですが。
私の中で死は全部の終わり。
意識がその後繋がっていくのは生きている人がいるからです。
遺された人が思いをとどめようとするから。
だからそれはまた遺された人の問題で、先に死ぬ自分の問題ではない。
「死」が人にあること。それは私にとっては安堵です。
いつかは終わりが来る。やがてどんなことになって酷い目にあおうが幸せになろうが、いつかはすべて等しく死ぬ。終わる。
それだけは世の中不条理で世知辛くても、平等に人に与えられた摂理です。
どんな風に生きていようが最後終われることだけが私にとっては救いです。
終わりがなかったら私は気が狂う。終わりがあるから、なんとかならばもうちょっと、と言って生きていられる。
…でもそれは、やっぱり間違っているのだと思います。そんな風にして生きたって、世間でいう幸せになんてなれないでしょう。
幸せは意識の持ちようだとも言います。だとしたら私は一生このままでは何も空っぽのままです。
…でも何度そう考えても、心から納得が出来ない。
暗い考え方の方が腑に落ちる。誰かに負の考え方と正の考え方をもし諭されたなら、私は間違いなく負の考え方に賛同してしまう。
もうこの時点でアウトです、私の中では。
じゃあ、私はなんでここにいるんでしょう。死んだ方がマシなんじゃないでしょうか。生きている人に、生きたい人に、命を大事にする人に対して失礼です。
生きているだけで私は失礼でどうしようもない女です。
…そう思うと余計に、早くこの生が消えてなくなってくれたらいいと思う。
でも自殺もできないんですよ。痛いのは怖いから。嫌いだから。
小心者で、自分で死ぬこともできないのに、生きている限り私はこういうことを考え続ける。
…どうしたらよいのでしょうね。
…駄目だ、しょっぱなから酷い、これ…
人に見せるような、聞かせるような話じゃありませんね。
私がこんなことばかり考えてるって知ってました?
ちょっとは知ってたと思います。でもここまでだって知ってました?
暗くってごめんなさいね。笑って下さいな。
でなかったら飽きれてください。
…本当に駄目だな、既に自虐に入ってる気がする…orz
でもごめんなさい、本当にこういうことしか考えてないんです、私。
だから外に出るんです、病気みたいにイベントばっかり。
一人で家にいるとこういう考えがもっと酷くなるばかりだから。
何も考えないでいられるのって、動いている時、誰かと何かをしている時だけなんです。
ちょっとでも油断したら私はこういう考えに引きずりこまれる。
人は私をいつも忙しそうにしている人だ、と言います。
それは死に私が急いでいるからか、そこから逃げようとしているからか、必死に生を感じようとしているからだと思います。
生を感じたいという願望はあるのです。
こういう考えに引きずられる自分がとても嫌でもある。だから、どうにか抜け出したいと思う自分も少なからずいます。
何か執着できれば、何か生きている意味を見出せるものに出会えたら、私は変われるかもしれない。
いつもそんな淡い幻想を求めてオタクやっているのです。
ネオロマやイベントがないと死んでしまう。
良く冗談交じりにそんなことを言いますが、あながち比喩でもないかもしれない。
…おかしいな、近況報告のはずが、内面報告になってしまいました。
こんな人間もいるんですよ。
仲間っぽいと思っている人もいる。
ゆうきゃんとか智和とか…(笑)
きっと勝手な思い込みなんですけど、そうすることで自分を維持しているのです。
だから私はゆうきゃんが突然ある日自殺したと聞いても驚かない、などと言うのです。
自殺することはけして許されることではないでしょうが、私のような考えをする人間にとって、ある意味自殺も勇気の出しようなのです。
勇気を出して、とうとうそれを達成してしまったのだ、くらいに思うでしょう。
歪んでますか、おかしいでしょうか。
自分でおかしいというのもおかしな話です。私はまともですよ、多分。
世に言うまともかどうかは知りませんが、私にとって私はまともです。
そうじゃない人が異常だ。
本当に何の話だこれは…
こういうことを書くことを覚悟して始めたはずなのに、既に一日目にして溜息が漏れます。
言い訳言いたくなりますしね。
でも、全部思っていることホント。
読んだ人がなんて思うやら。今更怖くなってきましたよ。
それとも賛同しますか?どうなんだろう。人にここまで言ったことがないから分からない。
とりあえず時間も時間なんで終わっときます。
またどうせ似たようなこと書きそうですが。
明日ことはクリムゾンの感想書きたいなあ…どうせまた似たような内容になるんですけどね。
ミハエルまでクリアしたんですよ。
ガンバろ…
PR